古典解説 Japan classics
高校生、浪生、中等教育関係者向け
入試はひとまず考えずに、古文をメインに古典を一から好きになってもらうために起こしました。対象は上記の通りですが古典を学びたい方は、どうぞご活用ください。
その1 ラスト文章は以下でした。
在原業平(ありわらのなりひら)※1 が詠んだ「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが・・・の身にして」という歌についてともに論じた文章があるので、比較ができます。
ここで
<歌論>について 読解ポイントは
1、歌のどの部分・どの表現が取り上げられているかを押さえる。
2、その部分・表現について、作者はよいと考えているのか、よくないと考えているのかを押さえる。
3、作者がそのように結論付けた根拠を押さえる。
→例えば、歌論で有名な <鴨長明 (かものちょうめい)※2>の考え方は
当時主流の『心情を露骨に表現し過ぎると余情がなく、和歌に深みがなくなる』というのがありました。
→その他、歌論の“よくある”批評といえば
1、技巧過多の和歌は、よくないと軽んじられる。
2、和歌の部分的な表現について論じるものが多い。
<在原業平(ありわらのなりひら)※1 について>
六歌仙(小野小町など6人の古今和歌集の歌人)の一人。伊勢物語の主人公といわれている平安貴族ですから、かなりの美形?イケメン?とも。これは日本三代実録という平安時代の歴史書に
業平、体貌閑麗、放縦不拘、略無才学、善作倭歌。
という記述があるので、否定できないようです。体貌閑麗=容姿端麗。
※写真は記事とは関係ありません、段落分けとして貼り付けています。
さてメインテーマです。
在原業平が詠んだ「月やあらぬ春や昔の春ならぬ わが・・・の身にして」について
前半部分から 解釈が真っ向反対なのである。
月やあらぬ春や昔の春ならぬ
本居宣長は 二つの「や」を「やは」という<<反語>>の意味にとっており、『月は昔の月ではないか、春は昔の春ではないのか、いや月も春も昔のままである』と。
一方、賀茂真淵は
「や」を<<疑問>>の意味にとり、『月は昔の月ではないか、春は昔の春ではないのか。月も春も昔と変わっている。』としている。
よって後半の わが身ひとつはもとの身にして の意味も変わってくる。
『それなのに私の身だけは もとのままでありながら、昔のようでもないことだなあ。』 VS 『それなのに私の身だけは もとの昔のままであるよ。』
※本居宣長 VS 賀茂真淵
以上のように「や」の解釈で、こうも意味が変わってしまうのは驚きですね。歌論 読解ポイントの3
<<作者がそのように結論付けた根拠を押さえる。>> については次回見ていきましょう。
※写真は記事とは関係ありません、段落分けとして貼り付けています。
最後に>>江戸時代の有名な著書を紹介しておきます。
本居宣長の『源氏物語玉の小櫛(げんじものがたりたまのおぐし)』や 『折たく柴の記』は、新井白石が書いた随筆。『花月草紙』(かげつそうし)は、松平定信による江戸時代後期の随筆集。同じく江戸後期には万葉集の注釈書として、賀茂真淵 が書いた『万葉考』などなど。
<鴨長明 (かものちょうめい) ※2>
鴨長明といえば『方丈記』、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という冒頭の美しい文章まで、出てくれば満点です。非常に興味深く、一般的にも生き方が個性的だったようで各所に遺跡のようなものが残っています。近い将来、孤独・孤立 〜ぼっち研究〜 で取り上げる予定です。
次回、その3 に続く
以上 古典解説 Japan classics でした@